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松本城
画像の撮影日:2006年8月4日

長野県松本市の松本城をご紹介します。

今回は、松本城北側の観光駐車場に車を止め、北側から入ります。この、松本神社前交差点を北側に入ると、ここも有名な旧開智学校がありますが、このときは次に行く予定だった美ヶ原への時間がかかるため、行きませんでした。

この交差点のところに植えられたこの巨木は、ここにある松本神社の御神木です。松本神社は、地元では「五社」と呼ばれます。
元は松本城主戸田氏5代を祀る社として知られた「腸谷大神社」で、1953年に同じように松本城歴代城主祖先を祀る片宮八幡宮と、今宮八幡宮・共武大神社・淑慎大神社・若宮八幡宮の合祀を期に、現在の松本神社に改称したそうです。
このときはあまりよく見なかったのですが、歴史ある神社だったんですね。
松本城に入ります。松本城北側のお濠を見ます。お濠というと、私にはどうしても会津若松の鶴ヶ城のイメージがあるからか、深いのかと思ったら、ここのお濠はそんなには深くはありませんでした。その代わり、結構広かったです。
北側から見た松本城。写っている橋を渡って場内に入ります。が、料金がかかります。橋を渡ったところに券売所があります。
お濠の中には、鯉が沢山いました。大天主からお濠を眺めると、まるでごみや苔が沈んでいるように見えるほど、鯉がいます。
松本城の大天主を下から眺める。

この松本城の天主は、この5重6階の大天主ととなりの乾小天主、辰巳附櫓、月見櫓からなる城で、現存天主のひとつで、国宝・国指定史跡です。ですから、決して石垣を引っこ抜いたり、柱に「大スキ」とか相合傘を彫ったりしてはいけません。犯罪になりますし、厳罰に処せられます。しかし、犯罪になるからという以前に、建造物に落書きとかする人のほうが、どうかしていると思います。何でいけないのか考えればわかると思うんですが。

この黒い外観から「鴉城」とも呼ばれるそうです。しかし、この写真、周りの植木とかが写りこんでいないから模型の城を撮ったみたいに見える…。
天主の中は、土足禁止となっているため、入り口でビニール袋をもらって靴を脱ぎ、中に入ります。中は、昔のままの城なので、急な階段が多いです。敵に攻め入られた時を考えたつくりなんでしょう。

中は、松本城・松本藩の歴史や当時の銃などが展示されています。そして、大天主の一番上からは、松本市の町並みを眺められます。ここへは、細くてかなり急な階段を通って上るので、人の行列ができていました。

で、その松本城からの眺め。まずは西側。家並みが広がっています。眼下には、お濠の周りに植えられた柳の並木。
南側。こちらは市街地になっていて、ビル街です。蝉の鳴き声がすごい…。
北側は、なにやら子ども会の行事で訪れていたのか(話の内容と名札から東京豊島区からきてたようです)、小学生がいっぱい記念撮影していたので、代わりに北西のほう。

こうしてみると、やはり松本は山に囲まれた町なんだなぁ…。
東側。遠くにかすんで見える山の中のひとつが、この後訪れる美ヶ原の山です。写真右の灰色と黒の混ざったビルは、松本市役所。

下には広い芝生の植えられた場所がありますが、この場所にも昔は建物があったそうです。
松本城。右側が小天主、中央が大天主、左側の出っ張っているところが月見櫓です。

この松本城は、戦国時代、信濃国を治めていた小笠原氏が砦を築いたのが始まりといわれるそうです。その後、武田氏に支配された後、徳川家康の支配下に置かれます。豊臣秀吉が徳川家康を関東に転封した後は、石川数正が配置されます。この石川数正と子の康長が、天主・城郭・城下町を整備しました。
江戸時代は、水野家などの松本藩の居城になり、水野家のあとは戸田松平家が代々居城しました。
明治になると、1872年に天主が競売にかけられ解体の危機に陥りますが、市川量造(長野県初の日刊新聞を創刊した人物として知られる)らによって買い戻されて難を逃れました。そして、1930年に国指定史跡になります。
城の敷地内には、売店や休憩所もあります。さっきの子ども会の人たちが大勢集まっていました。

城の敷地を出てみます。これは、南側のお濠です。市街地にすぐ行けます。すぐそこには、TSBテレビ信州本社があります。
城の脇、上の写真を撮った門のところには、松本市立博物館があります。中には、日本民族資料館もあります。
博物館前から市街地方面をながめる。福島県で言うと、郡山市のような位置づけですが、人口などの規模からすると、福島市のほうが近いか?
同じ場所から、松本城天主。
最後にもう一枚、ガイドブックなどにある位置から。

松本城、どうでしょうか。説明文よりも、写真で楽しんでいただければ幸いです。