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弾正ヶ原画像の撮影日:2005年8月27日

福島県耶麻郡塩川町は、知らない方も多いと思いますが、実は「自由民権運動」の発祥の地であります。たぶん、大部分の方は自由民権運動と聞くと「秩父事件」などを想像されると思いますが、塩川町にある、弾正ヶ原(だんじょうがはら)が、自由民権運動の発祥地です。ここから、全国に運動が広がり、結果として、秩父事件が起きたり、国会開設や大日本帝国憲法が作られていくわけです。


この弾正ヶ原で何があったのか簡単説明しましょう。
(一応、社会科教師から聞いた話ですので、あっているとは思いますが、間違いがあればご指摘お願いします。)

明治15年、福島県令だった三島通庸が若松から、米沢・新潟・宇都宮へ至る「会津三方道路」の建設を計画し、地元の住民が労働に駆り立てられ、労働に出れない者はお金を払わないと、家財を没収されることになりました。そんな中、計画に反対する民権派の指導者・宇田成一らが逮捕されました。これにより、民権派の農民はこの弾正ヶ原に集結、宇田の釈放を求め喜多方警察署へ押し寄せます。このとき、警察官と押し寄せた人々との間で乱闘が起きました。これが、喜多方事件です。その後、この喜多方事件は福島事件・加波山事件へとつながっていきます。

弾正ヶ原は、喜多方事件のきっかけとなった場所であるわけです。喜多方事件についてもう少し詳しく知りたい方は、「弾正ヶ原」で検索をかけるといろいろ詳しいことがでてくると思います。

塩川町の国道121号線、「オンセミコンダクター」の工場(旧・日本モトローラー)のある交差点を、「長床」方面に曲がり、農免道路を進みます。

ちなみに、長床とは、喜多方市にある国指定重要文化財です。
工場の多い地区を抜けると、姥堂川を渡るこの橋「弾正の橋」を渡りります。

すると右側に、
水田の中に、1箇所だけ木の茂った場所があります。ここが弾正ヶ原です。大きな「史跡弾正ヶ原」の看板もあるので、すぐ分かると思います。
カーブを曲がり、磐越西線の踏切が見えてきたら、踏切手前の道路に入ります。

尚、踏切の手前には、写真のような看板が立っていますが、小さすぎてわからないと思います。看板の位置は、踏切の手前の電柱の下のところです。

関係ないですが、写真の後ろに写っているカーブの標識のカーブの方向が実際のカーブと逆です。
上の小さな看板より分かりやすい目印があります。

写真中央に写っている「つくろう健やかで幸せな町健康のまち宣言都市 塩川町」の青い看板が入り口の目印です。

ちなみに、写真右側にも細い道路が通っています。これは、左側の広い道路の旧道で、踏切のすぐ隣から入っていて、50mくらいで現道に合流します。草だらけですが、まだ通れます。自転車や歩行者ぐらいですが。このことからわたると思いますが、上の写真の小さな看板は、この旧道が現役だった時代のものということです。
だんだん近づいてきます。

ここは、塩川町指定重要文化財になっていますが、自由民権運動が始まるきっかけになった場所なんだから県指定ぐらいにならないのかな?
しばらく道路を走ると、警報機や遮断機のない、いかにも田舎っぽい踏切があり、その向かい側に弾正ヶ原の入り口があります。

入り口には石碑が建っています。これも小さい石碑なので、車であまりスピードを出しすぎると、見落としてしまいます。
入り口を入りと、このように、一見行き止まりっぽく見えます。ご安心下さい。右に曲がるとちゃんと入れます。

ちなみに中央に写っているのは、水田に水を送る役割をしていたポンプの入っていた古い木造小屋です。横には、これまた古い木製の電柱があります。使われていませんが、田舎っぽくていいでしょ?
敷地はこんな感じです。あまりきちんと整備されてないらしく、雑草だらけです。でもそれ以外の整備は一応なされています。塩川町のHPにある弾正ヶ原の写真ではきちんと雑草が刈られたきれいな状態でした。ちゃんと管理してほしいものです。

写真中央のケヤキは、民権派がここで集会をしたときに、リーダーが演説をするため上りました。この集会のあと、喜多方署に押し寄せ、喜多方事件になります。
写真では分かりにくいと思いますが、石碑がいろいろ建っています。その石碑の1つには、私の祖父の名前も入っていたりします。

ここは、栗村弾正清正という人の屋敷があった場所のため、弾正ヶ原と呼ばれています。お墓もこの中にあります。
おまけ。近くにあるカントリーエレベーターです。

カントリーエレベーターは、収穫した米を乾燥・もみすりする共同施設です。私の家も農家ですが、自宅に乾燥機やもみすり機が既にあるので、ここはあまり利用しません。

今回は歴史のお話でしたが、実はこの弾正ヶ原や喜多方事件の話って学校の教科書にはなかなか載りません。ここが、こういう意味での発祥の地であることは変わりないのですが。