神明通り画像の撮影日:2007年1月4日

会津若松市中心部、そこで南北に通る大通り「神明通り」を今回はご紹介します。しかし、神明通りだけだと、ほんの少しだけになってしまいますので、今回は、神明通りの南側の国道118号線もあわせてご紹介します。

写真は、鶴ヶ城南側を東西に通る「城南通り」と国道118号の交差点を通り過ぎたところです。近年、市中心部の国道118号線は電線地中化・道路拡張によって広く綺麗な道路になりました。
電線地中化とは言っても、この付近は電線地中化はされていません。この辺りはしない予定なのか、よくわかりませんが。

そして、道路拡張されたといいつつも、特に車の流れが良くなったわけでもないように感じます。神明通り交差点なんかで今でも車の流れが良くないです。
住宅の建ち並ぶ地区を抜けると、写真右側には鶴ヶ城のお濠が見えてきます。この付近からは、鶴ヶ城などの景観のためか、電柱地中化がされていて、頭上がスッキリして見えます。
お濠を見てみます。

道路沿いには桜が植えられています。冬の間は木の葉が散っているので、この道路沿いからも鶴ヶ城の姿がはっきりと見ることができます(このときは角度が悪くて写真には写りませんでしたが)。
付近は住宅もあり、学校も多いので、歩道の人通りは結構あります。
写真左側には、「日新館スイミングスクール」があります。日新館というのは、やはり会津藩校日新館からとったのでしょう。

会津藩校日新館は、当時は鶴ヶ城西隣にありましたが、復元する際は、その広大な敷地を市街地に確保できなかったため、郊外の河東町に復元されています。
藩校というのは、江戸時代に藩士の子弟を教育するためにつくられたものです。会津藩校の日新館は全国有数の規模でした。
上の写真の右側に少し見えていますが、県立会津学鳳高等学校です。鶴ヶ城のすぐ脇なので、よく知られた存在です。
もとは1924年に創立した、若松実業女学校です。その後、1948年に若松女子高等学校になり、2002年には男女共学化し、現在の名称になっています。また、2007年からは福島県で唯一の併設型中高一貫校となり、県立会津学鳳中学校ができました。そして、2007年夏には、会津若松市一箕町千石通り沿いの富士通工場跡地に完成する新校舎に移転します。

この現校舎の跡地利用が、問題となっています。さまざまな案があるようです。
学鳳高校が見えてきたこの交差点、写真右側からは鶴ヶ城駐車場から車が出てきます。ここからは、鶴ヶ城へは入れません。出口専用です。
道路拡張の影響で、この付近の道路沿いの建物は殆どが新しくなっていて、大変綺麗な町並みになっています。古きよき町並みというものが見られないのが残念だ、という方もいると思いますが。

しかし、古きよき町並みも、この綺麗な整備された町並みも、自治体・個人共に努力して維持管理しないと、ただの寂れたみすぼらしい町並みになってしまいます。自治体ががんばって、道路などの維持に努めても、付近の家並みが管理されないと…。
しかしながら、電線がないと空が良く見えて良いです。

写真右側に見える巨大な建物は、学鳳高校の体育館です。
上の写真の先は、交差点になっています。ここを東側に曲がると、鶴ヶ城駐車場への入り口にいけます。また、地裁会津若松支部や合同庁舎、県立博物館、千石通り、東山温泉に行くことができます。

西側に曲がると、竹田綜合病院があります。さらに行くと、市の郊外から会津美里町や三島町方面にいけるようです。
交差点を過ぎると、住宅が減り、代わりにビルや商店が建ち並んできます。

写真右側の白いビル、「ベルメゾンおおぜき」というのですが、どうしても私はここを通るたびに、カタログ通販の千趣会「ベルメゾン」を連想してしまいます。勿論無関係ですが。
道路の両側、どちらを見ても建物が新しい。城下町会津を意識したような外観にしている建物もちらほらとありますが、ぱっと見たところは、ごく普通の整備された町並みです。
ところどころ、建物が建てられない空き地が見受けられます。道路拡張で立ち退いたままなんでしょうか。

道路拡張以前は、この辺りは電線が張り巡らされ、歩道も車道も狭く、建物もごちゃごちゃし、通り全体が日の当たらない暗い感じで、渋滞も今より酷かったです。しかし、今はご覧の通り、明るい感じになっています。
こんな感じに、会津若松という土地柄を意識したような外観の建物もあったりします。

よく見なかったのでわかりませんが、ここのお店は果物屋さんなんでしょうか、街頭にメロンやブドウなんかの看板がついています。
だんだん、神明通りに近づいてきました。ビルが見えてきます。
吉野家の前を通ります。吉野家の会津若松2号店です。

会津若松の市街地は、普通の食堂が多く、こういう感じのファーストフードの店があまり存在しなかったので、早く安く食事を済ませたい人には便利になったと思います。
神明通りに近づくと、多少ビルが目立ってきます。この辺りは、車の流れがあまりよくないです。
写真右には、蔵造りの建物があったりします。これも、会津若松という土地柄か。

写真左端に少し切れて写っている、「ビープレゼ」こと関美工堂は、1952年に国内で最初に記念品の「楯」を発案・商品化、1954年には世界で初めて装飾金具付きの楯(王冠やワシの付いた楯)を開発した会社という、地味ながらすごい会社です。今現在も、記念品の店として楯やトロフィーの製造・販売を行っています。
その先、神明通り南交差点から、神明通りに入ります。全長約330mの通りで、両脇にはアーケードが設置されています。

神明通りは、元々は1944年に軍の命令で市民の避難所と交通混乱の防止のために作られた道路です。終戦後は闇市となりました。その後、1946年に県の条例で道路上の使用が禁止され、闇市は姿を消していきます。その後は、観光都市造りのために発展を遂げ、1950年には歩道のブロック舗装が完成、同時期には通りの南北の入り口にアーチができ、1955年には車道の舗装・通りの中心にネオンアーチの設置、1957年からは段階的に工事を進め1964年には両側のアーケードも完成しました。
現在は、南北入り口にあったアーチと通りの中心にあったネオンアーチは撤去されていますが、アーケードの上部にはこのように「神明通り商店街」の看板が設置されています。この看板は、数年前までは文字が剥がれぼろぼろでしたが、今は綺麗にされています。
また、この時は冬だったので、雪だるまのイルミネーションが取り付けられていました。

「会津若松の街」のページでは、神明通りの歩道は自転車通行できないようだと書きましたが、この画像には「歩行者・自転車用」の標識が設置されているのが確認できます。そのため、現在は自転車通行は可能なようです。この標識は見落としてたな…。
アーケードがかかっているので、結構暗い写真になってしまっていますが…。

神明通りは、さすが市の中心部ですから店は多いです。今のご時世、中心市街地は人がいないといいますが、そうでもないです。買い物客もいますし、付近の高校に通う高校生などの姿も良く見ます。店も閉店している店もところどころありますが、やっている店が殆どです。しかし、人がいるとは言えどもその数は減少傾向にあるため、厳しい状況にあることには変わりありません。
魅力ある店作り・街づくりをしなければ、このままいくと人が通らなくなってしまう日が来てしまいます。
この神明通りも最近整備されて、歩道のブロックを新装、電線の地中化や信号機の交換、路面改良が行われました。それによって、車道の車線が変更されました。

右側のビルは、レオクラブガーデンスクエアです。「会津若松の街」でも紹介しましたが、TSUTAYAやドトールコーヒーなどが入居しているビルで、元々は長崎屋会津若松店でした。
アーケードの途中には、神明神社という神社があります。ここが、神明通りの名前の由来となっているそうです。

この神明神社の南側の駐車場は、かつては大善百貨店でした。その頃は、今よりはるかに賑わいがあったでしょうね。

私の母親の思い出話だと、大善百貨店は、店内に商店街っぽくなっている場所があり(いわゆるテナント街というものでしょう)、いろんな店が並んで、屋上には昭和の百貨店にはおなじみ、「屋上遊園地」があったそうです。
通りの中心辺りには、鉄骨のアーチがかかっています。これは、会津まつりの際に使うため、設置されているそうです(どういう風に使うのかは見たことが無いのでわかりませんが)。

タクシーの客待ちの列が…。だから渋滞するのでは…?
神明通りには、写真左右のアーケードが一段高くなっている場所の奥に、駐車場がありますが、無料ではないし狭いんですよね…。
左側には、リオンドール若松店が見えます。リオンドールは、基本的には食品スーパーですが、ここの若松店だけは百貨店様式を取っているようです。食品だけでなく、衣料品も扱っています。

これも母の思い出話ですが、ここのリオンドール(以前は「ライオンドー(ライオン堂)」という社名だった)も、昔は今よりも百貨店っぽい感じだったそうです。

写真右に写るように、大型バスも通るため、狭く感じます。
う〜ん…写真右側を見るとわかると思いますが、すごい車の列。こっちもなかなか進まない…。
写真左側の白いビルは、中合会津店です。会津唯一の百貨店なので、よっぽどのことが無い限り、なくならないとは思いますが…。
中合を過ぎると、もう店というよりは金融機関の集まりになってきます。銀行に用があるなんて人はそんなに多くないので、この周辺だけは人通りが少ないです。

写真左側の大きなビルは、東邦銀行会津支店です。
で、上の写真の左側には、みずほ銀行会津若松支店(旧:富士銀行会津若松支店)、そして交差点の向こう側には会津若松郵便局があります。
で、神明通り北交差点。ここで神明通りは終わります。ここは、国道と県道が東西南北から交わっているので、渋滞ポイントとして知られています。

この先は中央通りです。中央通りは1967年の大町区画整理事業によって建設が開始され、1978年に開通しました。神明通りに比べると、比較的新しい通りです。
この大町区画整理事業の際の映像が、会津若松市役所ホームページで公開されています(当時の市政ニュースの映像)。当時の、南北入り口にアーチがあった頃の神明通りの姿も見ることができます。

神明通りをご紹介しました。今度は、もっとじっくりとご紹介したいです。